私も今年で76歳になった。これまでさまざまな出会いと別れがあったが、そうした機縁を通じて多くの言葉に出会い、長い旅路の折々に力をもらい、慰められてきた。そんなこれまでの身に余る出会いの数々に感謝し、同時に、残された地上での歩みの中での新たな出会いと、とりわけ若い人たちに何某かの希望のメッセージをお伝えできることを願い、9月から、毎週、これまで頂いてきた大切な言葉を記していくこととした。
京都での学生時代に、同郷の先輩である村岡泰行兄に導かれ、当時、民法の法学部教授でいらした奥田昌道先生がご自宅で幸子(ゆきこ)奥様とともに日曜日毎に主催されていた京都キリスト召団の家庭集会で頂いた聖書の聖言が多いが、詩や歌も含め、私の中に刻み込まれてきた言葉をお伝えしたい
2026年10月3日(土)
「イエス途往くとき、生れながらの盲人(めしい)を見給ひたれば、弟子たち問ひて言ふ『ラビ、この人の盲目(めしい)にて生れしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか』イエス答へ給ふ『この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顕れんためなり。』」
(新約聖書ヨハネ伝9章1-3節)
*1991年から93年まで当時の厚生省で障害福祉課長を命じられた。障害を持つ人やその親御さんたちに行政官として何ができ、何を語れるのか、重い荷を負い、自問自答しつつ週末も全国の現場を走り回った日々。全国各地で親御さんや地域でサービスを切り拓いている人など、本当に素晴らしい人たちと知り合い、勇気をもらった。35年経つ現在まで繋がる人生の同志たちだ。そんな折々、まさに弟子たちのような考えを持つ人が多い中で、このヨハネ伝のイエスの断言は、そうだ!と胸を打つ。
2026年9月26日(土)
「我等この宝を土の器に有(も)てり、これ優れて大(おおい)なる能力(ちから)の我等より出(い)でずして神より出(い)づることの顕(あらは)れんためなり。われら四方より患難(なやみ)を受くれども窮せず、為ん方(せんかた)つくれども希望(のぞみ)を失はず、責めらるれども棄てられず、倒さるれども亡びず、常にイエスの死を我らの身に負ふ。」
(新約聖書コリント後書4章7-10節)
* 困難に出会うとき、打ちのめされそうになったとき、いつも根源的な力を頂ける、何と力と慰めに満ちあふれた言葉だろう。キリスト者の人生は、けっして平坦で穏やかな道ではなく、逆に多くの試練や試みに遭う道を歩まされるが、常にこの根底の所で支えられ、全託して勇気を持って歩みを前に進める。右顧左眄(うこさべん)しない人生。
2026年9月19日(土)
「汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。まず神の国と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みずから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。」 (新約聖書マタイ伝6章32-34節)
* 若いときに亀井勝一郎の書で出会って以来、いろいろな心配事などを抱えたときに繰り返し心に刻んできた聖句である。主さまに全託して、終末的現在を生きる。
2026年9月12日(土)
「我キリストとともに十字架につけられたり。最早我生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」 (新約聖書ガラテヤ書2章20節)
* 聖書でもっとも大事な一文として、奥田先生が近年多く引かれるパウロの言葉。この原点に常に立ち返ること。
2026年9月5日
「けふもまた 心の鉦(かね)をうち鳴らし うち鳴らしつつ あくがれて行く」
「日は日なり わがさびしさは わがのなり 白昼(まひる)なぎさの 砂山に立つ」 (若山牧水)
* 山口高校時代の同級生の河村五郎君が、卒業に当たり帳面に書き贈ってくれた短歌。もの静かで、文学を目指して早稲田大学に進んだ彼とは、その後、若干の文通をしたのを最後に、私もボート部での新しい生活にどっぷり漬かっているうちに、所在が分からなくなった。現在もなお、同窓名簿でも確認できない。どこでどう暮らしているのだろうか。心の中の敬愛する若き日の友である。
